不幸ってなに?幸せってなに?虐待、完全否定のトラウマ不幸グセ人生から逆転してわかったこと

加計呂麻島のキリスト教会にて
しあわせ〜ってなんだ〜っけなんだ〜っけ
ポン酢醤油のあ〜るう〜ちさ〜
っていう明石家さんまさんの歌声が流れるCMがその昔ありました。
これって今なら「あ、たしかに」って、なんとなく真理をついてるなあ〜〜って思う詩です。
タイトル、重めですが、書いてることは重さはそんなにありません(笑)
いや、ここ数年でこの
「不幸とは」
「しあわせとは」っていう長年の疑問に対して答えと思しき真実の存在をひしひしと感じていて。
だからこの記事はそのことを書こうかと。
その昔、ずっとずっとその謎の正体がわからずに、「そうであろう」といともやすやすと信じさせてくれるステレオタイプの「しあわせ」を頼りに「探して」いたわたし。
昔の「わたし」と、昔のわたしと同じような迷路に入り込んで苦しい思いをしているひとにぜひ一読してもらいたい「事実」を書こうと思うのです。
暴力、全否定、差別が大半の記憶だった
思えば「愛」だとか「しあわせ」だとかいうテーマについて固執するっていう状態は私の42年間の人生の道すじの中であまりにも大きく複雑なテーマでした。
まず。
わたしの幼少の一番古い記憶は母からの
「お前なんで生まれてこなければよかったのに」
というひとことと、
その言葉の背景は父と別れるとしたらどっちにつくんだ、という選択を迫られた上で、しかも母はさも悲しそうにオイオイと泣いていた、というものでした。
その後の記憶も思い出すのは
全身に発疹が出ていて熱で朦朧とした状態で母に保育園に連れていかれて返されたときのこと、
保育園の卒園アルバムにわたしだけが別窓の丸い写真だったこと(しかもそれを見ていた当時はなぜそうだったかよくわかっていなかった)、
「お前は迷惑ばかりかけるやつだ」
「お前なんてどうせできない、どうせ無理だ」
「お前に出す金はない」
などなど全否定、嫌悪、憎悪のエネルギーやそんな表現の数々。
同時にどんな矛盾もわたしに矢が刺さる結果と受け止め寵愛される下の妹弟たちのこと、
中学時代に学校指定のコートを買ってもらえない私と、参観日に毛皮のフルレングスコートで現れる母に笑いを取るしか感情の処理方法がわからなかったこと、
何度か空き巣に入られたことがあるのだけど、そのたびに狂ったように「金がない!!!!もう終わりだ!!!!」と泣き叫ぶ母の形相のこと、
カッターで指を切られて(勢いでそうなってしまったのだけど)も鬼の形相で自室に逃げ込んで鍵のない扉を自分を盾に開かないように押さえているその扉を、全力で蹴り開けようとする母の姿、
何かで激昂した母に全力の蹴りをいれられそうになり避けた先の壁に穴が空いたこと。
書いていて、しかももうそこになんの恨みも執着もないけれど、
ちかごろの世の中だと立派に虐待認定を受けるレベルでもあるなあ、と改めて思います(笑)
今はわたしにとって「ありがたい」と心の底から思えることたちだけれど、当時はもういわゆる
感じることを抑制する
感情を殺す
笑いに変えてごまかす
こんな方法でなんとか必死に、なんとか「しあわせ」になろうと、生き延びようとしていました。
不思議と自死が解決になる、ラクになれるとは思ったことはなくて。
ただただわたしは「人間とは」「”この世界で生きる”意味とは」ということや
「愛」や「しあわせ」それ自体とその意味を猛烈に求め続けていました。
だから先述のような日々に、そんなことを体験している最中でも、
心の中は常にそこに光や答えがある、と感じながら、
暴力や暴言、奇行に振り回されながらもどこかどこまでも冷静に、
そんな行動や言動の起因となっていたであろう、相手の(母だけではなくそういう経験は社会生活でもあったので)心理動向や思考癖について観察の目を持って”眺めて”いたことも記憶に刻まれています。
刺激を「愛」だと信じていた
そんな日々、文字にして見るととても激しく、近頃の世相では表現することすら躊躇した方がいいのか、と思うような状況ではありましたが
今日までなんとか健康で生きているわけです。
だからそうじゃない日もあったし、そうじゃない日の方が多かったことは、きっと似たような経験をしたことがなかったり、すでに心の整理がついていて冷静に文節を読み流すことができるひとならわかるはずです。
かくいう本人であるわたし自身も、今は本当に冷静にそのことを理解しています。
だけど。でも。
そこに至るまでの心理的なアクションやダメージはそれはもう想像を絶するものがありました。
(だからこそ人生や運向き、運命や現実を支配するのは心や思考だ、と心底から理解したのですけどね)
「そこに至る」とは、それまでの間、
感じることを抑制する
感情を殺す
笑いに変えてごまかす
という「なかったことにする」という方法でその事実にも、そこで感じた感情にも完全にフタをして、二度とそれに触れられないように封印していたわけですから
そこまでするっていうことはそれだけ受けたもの、そこで起こった反応も感情もそれだけ激しく強いものだったわけで。
それだけのものを押し殺してきたからなのか、
わたしは「”しあわせ”と感じるモノサシ」を、
それとは正反対の反応を与えてくれる『刺激』のより強いもの
がそれである、やと思い込んでいたのです。
それ以外の感情に起伏を与えないものは「空気」みたいに「当たり前」で「いつでもどこにでも転がっている取るに足りないもの」という位置付けでした。
だからそんなものは「しあわせ」じゃない、と。
だからキラキラしたものに強く強く惹かれていたし、
ステレオタイプな、ドラマみたいな恋愛とか関係とか、もちろん性の快楽やステレオタイプな「正解」や「しあわせのパターン、カタチとされているもの」にも執着してました。
幸か不幸か、そういうものって案外(?)手軽に手に入るものばかりなんですよね。
お金がかかることも、手間が結構かかるものだってあったけど、そんなことより「しあわせ」に”なりたい”と、”生きる”ことそのものを継続していく意味を付加しなくては!!!と
必死に目の前の「それに違いない」と信じたものやことたちに手を伸ばしていきました。
でもそこで得たもので「末永くしあわせに」なるはずなのに。
「それが得られたらこれも得られるはず」だったのに。
その「しあわせ」(な気分)はその瞬間瞬間で過ぎ去って
そのすぐあとに現れるのは、心の動かないような「つまらない」状態だったのです。
探しても探しても
手にしても手にしても、なんどもなんども味わおうとしても
「それがふつー」でありたくてもそう努力してそれが実際にそうなっても
それは瞬間瞬間で去っては、得られたと思ってもまた流れ去っていきました。
「しあわせ」の場所に気づいたとき
そんなことを繰り返して繰り返して繰り返して。
どんなにしあわせになろうとしても、どんなにその手段の全てを得ようとがんばってもがんばっても
持続するしあわせな気分にはなれないことを知ったとき、
ふとわたしは
もしかしたら何か重大な勘違いをしているのではないか?
という疑問がはじめて湧いて出ました。
とはいえ、じゃあ何が「しあわせ」かということをさらに追い求めるというふうにはならず。
逆に「不幸」と思ってることに対して「不幸ってそもそもなんなの?」という疑問が湧いたんです。
そこから怒涛の自分への問い合わせをしていったんですね。
「不幸」認定してきた過去のことや、当時起こっていたネガティブなこととかに対して自分が何を感じて何を思っているのかを。
冒頭の記憶の中のこと、
そこから起こった感情や未消化の想いを再び感じ切ること、
まずもうその時点で自分が大混乱を起こしました。
そうしているうちに、表出させたり表現してこなかった、自分を擁護するような逆襲欲や憎悪の感情もドロドロと出てきて。さらに混乱を極めて錯乱状態みたいに。
しかもそれは、その記憶を自分に再生させるたびにそうなるので結構つらかった。
そしてその記憶が浮上したり、いやなことが起こったりするようなタイミングって自分でコントロールできるものではなかったので、
最初に意図せずその状態が起こったときは、何かで自分を麻痺させなければ通常の生活をできませんでした。(実際にほぼ依存症と呼べる状態にまで陥りました)
いくどめかにその状態が起こったころには、コーチングや心理学といった、そういう類の「問題」に対処するアプローチや理論に対しての知識はあったので、もちろんそれらを活用していたこともあって混乱もしながらも
それを観察する第三者的な目線(あくまで自分ではあるけど)の存在も確かに認識できていました。
そのときやっとはっきり聞けたんです。
あいつのせいで!
あのことがあったせいで!
あんな親でなければ!あんな生まれでなければ!
あんなこともされた!こんなこともされた!!!わたしは被害者だ!!!!!!
という悲痛で、どう猛な叫びを。
そう。
ずっとわたしは「被害者」という前提で人生を歩き続けて、全ての選択と感受をしていたことに、そのときはじめてはっきりと自覚ができたのでした。
被害者という前提で生きることを選べば、
正義や悪という”基準”を絶対の指針に持てば、
「しあわせ」や「不幸」というラベルを物事や感情につければ、
どちらにも強い拒否か執着が生まれるのは火を見るより明らかで。
まさにその地獄を自分で創造し続けていたということを、ようやく理解できたのでした。
そういえば「地獄」って「地」の「獄」と書くんで、そのとおりですよね。
※獄=罪人を監禁しておく所。ろうや。
「しあわせ」とは「不幸」とは
その後わたしは縁あって交際0日婚というちょっとおもしろい結婚のカタチを経験し、その後間髪いれずに出産〜育児生活と、ほぼほぼ「知らないひと」との結婚生活を送るという
まあ、奇妙で、たぶんたいていの人はできれば避けて通るような状況を過ごすというチャンスに恵まれ(?)ました。
まず、母との関係や出来事で生じた「被害者意識」については、わたし自身とおチビとの関係や出来事を新たに経験し続けることでどんどんニュートラルになっていきました。
実際に交流も関係性も、以前とは全くベツモノになっていて、今は行き来も割とありますし話もよくします。
恋愛や人生の運向きといった類のことは。。。
実はこちらに「苦労」ってそんなにしたことなくて。
人にも恵まれてきたし、運は絶対いい方だと思うことが人生の節目節目で繰り返し起こってきたもので、結婚は37歳のときで結構晩婚だったし、したこと(結婚を)自体が驚きだったので
まあこっから「問題のない人生」が開けるのかしら♡と思っていたら・・・
ま〜〜〜〜〜これが笑い話になるくらいデッコボコwwww
なんだかんだと5年目を迎えますが、いろいろあって、でも今、心底から実感してることがあります。
そこに関してはまた別カテゴリーで書くとして。
(すでにこちらにはけっこう格納してありますのでご興味ある方はどうぞ!)
あたりまえと感じるほどに自然なこと、それ自体が「しあわせ」なんだ、と。
そして「しあわせ」は目的地でも、探すモノでも、到達する境地でもなく、
単に「当たり前のように見えて唯一無二の今この瞬間」に対する湧き出る”感謝”によろこびを感じている感覚に気づくことなんだ、と。
わかったのです。
いろんなカタチがあります。
欲しいものを買えたしあわせ、
欲しかった状態が叶ったしあわせ、
家族という存在がいるしあわせ
すきなペースで仕事ができるしあわせ
仕事で喜ばれるしあわせ。
それらは全て、決まったカタチや決まった状態やランクや大きさや高いとか低いとかのジャッジを下すことをやめて
ただただ自然と流れていく日常の中で「当たり前」にすっと混ざり込んでいるそれらに「気づく」ようになっただけなのです。
起こっていること自体は過去も今もそんなに変わってはいないのです。
でも自分の状態があきらかに「しあわせ」と言い切れる理由はそれでだけなのです。
その視点が、そう感じることが自分の中で「当たり前」になったとき、同時に「不幸」とは
自分で作った決まりごとや信念という檻の中、閉じ込められその限られた視界の中でほとんどが闇であると恐れの中でもがく心の状態のことだ、と
自分を振り返り、いろんな人との関わりを経験してきたことで知ったことも含め、痛感したのです。
42年目の、私が心底体験から得た答え、でした。
ここに至るまでは心の状態は決して穏やかと言えるものでもなかったし、正直すごく時間がかかりました。
だからこれを読んだからと言って何かが解決するとかそんなことは思わないけれど、苦しんでいるその先に待っているものはとても穏やかで温かいし
いつ、どんな状況や状態にあっても、自らにその「しあわせ」を許す気持ちあるなら
必ず手にすることができるものだということだけは強調しておきたいな、と思います。
誰のことも、なんのことも「正さず」とも「改善」しなくとも叶ったよ、と。
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