「不幸なわたし」を作り上げるものはなにか。いくつかあるけど”ジャッジ”って相当ヤバかった、というはなし

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ここのところ思い出すことがあります。

かつてのわたしは、ひとをうらやむ天才でした。

そして対象と自分を比較しては自分を卑下しながらも、なぜか対抗心なんかを内うちに燃やして。しかし、堂々と張り合うなんてことするよしもなく。

そうかと思えばこれまた心のうちで「わたしにはこれがある!あれがある!」とかなんとか。

まるで成立してない「優劣大会」みたいなものを心の中で繰り広げては、結局のところ

”比較優位”を基準にした「優位」のひとやものごとを見て反応することでコントラストとして見えてしまったそのときのじぶんに「ない」もの「できない」こと「持っていない」コネやお金やモノや、

対比からあぶり出された自分の「不足」や「不能」や「価値の低さ」の感覚が苦しくて苦しくて、そこから目をそらすためにそれをやっていただけのことだったんですが。

そのことを引き起こしたきっかけっていつも、

なんか時間もお金にも余裕がありそうでなんにも苦労してなさそうで

何やってるかわからない(やたら肩書きが多いし、いろいろやってる)

もう生まれ持って見た目とかセンスとかが才能にあふれてる

みたいなひとを何かで知ったとき、なんですよね。

わたしはもともとトーキョーの原宿がキャリアのスタート時(90年代後半〜2000年代の初頭)の職場エリアだったし、仕事自体も常にそういう新しい、ちょっと常識を逸した美的なモノやコトやヒトのトピックに敏感であることがある種の”業務”のひとつでもある、みたいなところがあったので(そういうモノゴトヒトが交差するような環境でもあったし)

しょっちゅうそういうモノゴトヒトに遭遇してました。

SNSが「あたりまえ」になったちかごろだと、世界中どこにいたって自分のアカウントのあるSNSのフィードとかでおんなじような環境になってますね。

比べてすごく自分が「なんにもなく」「ちっぽけ」で「無力」で「無価値」に見えたものです・・・

これ、不幸の大元、「ジャッジ」というやつですね。

なぜいまごろになってそんなことをよく思い出すのかな、と思ったら、そのころ「うらやましいな・・・」と思っていたほとんどのことが自分の身の回りにあたりまえのようにあったり、常に起こったりするようになったなあ、と実感することが日毎に増えているから。

そう実感しながら、過去はず〜っと”不幸”なわたしやっていたなあ・・と(汗)思い出すのと一緒に、その「不幸なわたし」をつくりあげていたものって、おおむね3大要素(”3つのこと”はまた別途書きます)があるな、と気づいたんですが・・・

そのひとつに”ジャッジ”というものがあって

それが相当しつこくてやばかったのと、クラアイントさんでも結構この”ジャッジ”ってなに?みたいなつまづきが結構あったので今日はちょっとそれについて書こうかと。

 

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ジャッジってどういう状況のこと?

Photo by Bill Oxford on Unsplash

心理学とかちょっと手をつけ出して深みにはまり出した頃にによく目にし耳にした「ジャッジ」ということば。

「どうやらこれはかなり自分にとっていろんなことを紐解くキーワードのようだな・・」と感づきつつも、それが具体的に細かく説明できるかというとさっぱり。

いいことではなさそうってことだけははっきりわかるんだけど・・っていう程度でした(笑)

なんでわからなかったか。

それはあまりにも自然に、あまりにも頻繁に自分の中でなんの疑いもなく常に行われているから。

もうあたりまえすぎて「うたがう」とかどっからそういう発想に転換するのかほんとわかんないくらい当たり前に自分で自分の中でやってるんです。

 

これはもう、一回一回息するのを普通のひとが「科学でプレゼンする」みたいな感覚というか。

そんなことしないじゃないですか(笑)したいという欲だってわかないし。第一普通に生活するのに全く必要ないwww

でも自分の中の「ジャッジ」に気づくってこういう作業というかんじなんです。

呼吸って延々つづく

「無意識(※気づいてないっていう意味です)」の状態だとジャッジも呼吸くらい延々とやってます

 

あれもこれも、「ジャッジ」な具体例

Photo by Martin Kníže on Unsplash

「ジャッジ」ってことばの意味をググると「判決を下す」とか「審判」「判断する」とか出てきます。

たとえば冒頭の「比較優位」。

比較優位にある「ひと」のことをあれこれ「〇〇なひとだから・・・」「きっと〇〇なはず・・・」と一方的に推測したまま、それを基準に”判断を下す”、ということや

パートナーがとった態度について、そういう態度ならこういう傾向に考えてるに違いない・・・と判断したりすること、

自分がやったことの結果や経過について、こう思われているかもしれない・・・と思い込む(そういう判決を下す)こと、

ある状況や起こったことに対して、こうなってしまうのじゃないか・・・、と”判断”し、そうならないように避けなければ!、と「そうならないであろう行動」と”判断”してその選択をとる、だとか。

とにかくあらゆる瞬間に自分の中でモノゴトヒトに対する”判断”すべてがすなわち、自分の中で「ジャッジしている」という行為に当たるわけです。

そんなんいろんな過去の経験とか、人生の方針とか、願望実現のための危機回避だとかで、いろいろ「そうせざるを得ない事情」みたいなものがあるし。それなくしてどうやって人生生きるの?

って当初のわたしはこの「ジャッジ」を疑うという行為自体にかなり不信感がありました。

が。

それすら含めてあらゆる”判断”は「ジャッジ」と呼ばれるものだったと、ある日気がつきました。

自分を変える、とか人生の運向きを変えるっていうのはいくつかのハウツーで表せるシンプルなあり方で説明できるんですが、「意識」に常に意識的でいる、ということがそのひとつにあります。

自分の人生を変えたくて猛烈に研究してそれを実践してくる中で、こまごま浮かびくる自分の「アタマの中の声」を聴き続けていくうちにとにかく”ジャッジ”ばっかしているな、と。

いともそれが世界の常識、とか世界の基準!と思い込んでいたそれらは全部、そんなん自分ひとりがちっちゃいちっちゃい世界で下してる「判断」やん。。。と見れば見るほどわかっていきました。

 

ジャッジしないと何が起こる?

冒頭に書いたように、ほんとに「息するように」ジャッジしてるってことには気づけても、だからってありとあらゆることにジャッジを適用し続けることで均衡を保ってきた習慣です。そんなに簡単にはなくなりません。

なので、気が付いてもやっぱり「無意識に」それをやっていたし、

それに気がつくのもひとつのことに気が付いたずっとあとだったりしました。

しかし。

完全に「無意識」だったときよりは、気が付いたそのことだけでも「ジャッジ」をやめて見ると、明らかな変化がありました。

たとえば。

わたしはよく「ヒト」への”ジャッジ”をする傾向がありました。

ちいさなころからの虐待さながらの母の行為に対する防御スキルとして、人に対する感覚と防御判断を鋭敏にしてきてしまったのが影響が大きかったので。

これは結婚するまでは良く機能していることが多かったものでしたが、結婚して以降はパートナーとの関係でかなりこの「ジャッジ」が問題を引き起こしていました。

『問題』に当時しているときは”相手のせい”とか”育った環境のせい”とか”相手の親のせい”とかいろいろ原因は違うところに見出しては証拠集めや裏付け集めしていましたよ。

が。つまりそれ自体ジャッジだということに気が付いて、つまり「ジャッジしてネガティブ一択にしてるのは自分じゃん」と気が付いてからは

いろいろ思うところあるし、湧き上がる感情も当時とたいして変わりはないですが

とにかくジャッジすんのはやめよう、ってことで、あらゆる「ジャッジ」を発見しては「や、だからそれジャッジだし。却下。」って心でブツクサやってったんですよね。


それがまあ不思議。

以前は「改善するために、よくなるために」って意図して行動したり言動を選んだりっていうふうにしては、また同じことで衝突してエネルギースーパー消耗して。。。ってなったり、

そういう「〜〜のために」っていう選択や行動が相手にとっては「コントロールされる、支配しようとしてる」みたいな不信感として伝達していたり。

衝突して話し合いでは解決したはずが、時間の経過とともにそんな裏が出てきた・・・なんてことが繰り返されてたんですが・・・

その「ジャッジ」をやめたことで、衝突に至るようなイライラとか不信感を溜め込むこともなく

かつとにかく「ジャッジ」しないので、そもそも現状のどんなことも「とりあえず◯マル」になるわけなので、「よくしよう」とかする必要がなくなるわけです。

これは”相手に対して”だけですが。

相手を操作したり改善を願ったり、ということはなくなっても、ただただ、「それでもわたしはこっちがいい」という理想というのはもちろん持っていて。

でも現状も「◯マル」

願ったり理想としてるものも「◯マル」。

 

現状こうだからわたしの理想や願いは叶えられない・・・とか叶うのは遠い未来?・・とかわたしにはその価値がない???とか

そういうのも「ジャッジ」なんでそれもしないんです。

が。

 

よくしようとしないのに、なぜか勝手によくなる。

こういうことがあたりまえに起こるようになりました。

ヒトのことだけじゃなくモノ、コトすべて。

それで冒頭の気づき。。というわけなのでした。

 

ジャッジ。

ほんと、全部見つけるのってほんとに「しらみつぶし」っていう感覚がぴったりな気がすると思うほど、日常のあらゆるモノゴトにそれをしてました。

心理学やってても現実変わんないわ、っていうゾーンにいるとき、もしかしたらこの「ジャッジ」に対してどれをそう呼ぶのかわかんないっていう状態にあるかもしれないなって思ったんです。

実際わたしはそれに気が付いてからすごい「変わってく!」っていう実感を得られたので。

とはいえ、かなり無意識下に潜ってて疑いようもないくらい自然で、ここに意識的に気が付けるようになるのにすごい時間かかったな、と。

しかもこういうこと具体的に書いてるような記事にわたしは出会わなかったので、次の同じようなモヤモヤ抱えてるどなたかのためにウェブの海へこの記事を捧げます♡

 

 

 

 

 

 

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